東林寺の山号は天宗山,開山は宗賢院第二世楞山周厳和尚で、「出仕之覚」に年始・開山忌(九月九日)に鳥目三十疋を本寺へ納め、他寺と格別の扱いを受けている。
寺伝によれば、建治元年(1275年)に創建され、もとは真言宗の寺院で会下寺といい、鎌倉幕府の執権北条氏が帰依して篠原村内の字道念前に寺領八十三石を寄進し、境内は広く近郷でも稀に見る大寺であった。永徳三年(三八三)に諸堂宇・什宝と北条氏の寄進状を失い、寺勢は衰退するにいたった。明応五年(1496年)宗賢院第二世楞山周厳和尚が再興し、曹洞宗に転じて山号・寺号をいまのように改めた。
元禄十三年(1700年)客殿を建立し、天保五年(1834年)堂地を後方の丘(現在地)に移し、客殿・諸堂宇を再建した。この再建を果たした第一八世祖孝大如和尚を中興としている。明治四二年第二十四世仏舟達禅和尚のときに本堂を大修理して庫裡を改築した。
昭和二十年五月米軍の航空機B29の編隊が近くの陸軍陣地を空襲したが、本寺の諸堂宇は焼失を免れた。第二五世中行東潤和尚のとき昭和三八年に本堂を、同四十年から四一年にかけて庫裡・客殿を大改築した。
昭和初年のころの檀家は三十一戸であった。本尊は十一面観音菩薩像であるが、その腹籠の観音像は行基の作と伝えられている。
東林寺は篠原村の南方にあり、そのあたりを会下谷といった。会下とは禅僧が師僧のもとで教えを受ける所、転じて寺をいった(節用集)。東林寺以前にかってあったという真言宗の会下寺は、篠原を料所としていた鶴岡八幡宮の供僧によって創始されたのが始まりである。同村若宮八幡宮の旧地(元宮)という(新編武蔵風土記稿)。この元宮(鶴崎八幡)を江戸時代に東林寺が管理している。同社は会下寺を開いた鶴岡八幡宮供僧が同宮を料所内に勧請したものであると思われている。
室町末期にあった関東の大乱、享徳大乱(1454〜1480年)によって鶴岡八幡宮寺は、別当と供僧の多くが鎌倉を逃れ、同宮領も地下人に押領、買得されて衰微した。
当林寺墓所の入口に「善光大禅定門 □永十一年八月十一日」「真光一如居士 天正二年十月十五日」と銘を刻んだ五輪塔があり、村民の増田九右衛門家の祖先の墓と伝えられている(新編相模国風土記稿)。同家過去帳に「増田長山善光大禅定門」とあり、その没年は文永十一年(1274年)で、会下寺の開基と伝えられている(1987年度「港北歴史教室資料」)。
こうした歴史的背景のなかで小机衆と思われる増田氏の外護をえて、楞山周厳和尚は旧寺跡に東林寺を開創したのである。楞山和尚が同寺を創建したとされる明応五年は、その前年の北条早雲が小田原城を攻め落し、その二、三年前から扇谷上杉氏に味方してしきりに武蔵・相模両国内で軍勢を出陣させている。その時期に楞山和尚がいまだ北条氏の支配下にない小机篠原の地に東林寺を開創したのである。これはそのころ相模国東部、武蔵国南部を領域とした扇谷上杉氏の影響を考慮しなければならない。
創建以後の東林寺歴代住職は本寺宗賢院とし世まで同じであり、その後も同様に両寺を歴任した住職がいる。本末関係はその後もつづいて今日にいたっている。
東林寺では毎年旧暦の彼岸に本寺院の檀家である朝鮮半島に国籍を有する方々の祖先の慰霊祭を執り行っている。本寺院とこうした檀家関係が結ばれるようになったのは、関東大震災以降である。当時、「朝鮮人暴動」の流言によって険悪化しつつあった事態のもとで、本寺二十四世仏舟達禅和尚は社会的な要請に応えて、京浜方面を中心に在留するこれらの方々を檀家として受け入れ、今日に至っている。


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